泡盛の振興に尽くした起松
起松は、母オトから面倒見の良さと積極的な面を受け継いでいたようで、酒造組合の理事役員など積極的に受け、泡盛酒造業界の行く末を論じ、泡盛の振興を強く念願していた。常に各蔵の有志と話し合い、先頭に立って行動をするタイプであった。
1940年(昭和15年)には原料米のことで、組合の有志とともに国への陳情などを行ったりしていた。外米の共同購入、泡盛の販路拡大に向けたキャンペーンなど、組合全体の活動を行っていた。戦前戦後を通して、泡盛業界の諸先輩諸氏の活動が戦後の泡盛の復興につながっている事は言うまでもない。
昭和19年には、戦争により原料米の入手が困難を極め、製造休業状態となる。特に首里は空襲や爆撃をもろに受け、壊滅的な被害をこうむった。当時、地下の蔵には多くの古酒甕とともに、造りの道具、崎山家の歴史を語る家系図古文書など、多くの貴重な資料を持ち込んで保存していた。いつかその地に帰ることを祈願して去ったであろう、先代の気持ちを思うと無念でたまらない。
起松と藤子は4男6女を儲けているが、三代目操は昭和3年に誕生している。
戦争中、藤子は家族を守るため台湾に疎開していた。1939年(昭和14年)には、すでに二人の名前を冠した「松藤」の商標名を決めている。二人の思いを込めた「松藤」は、70年の時を経て、ファンの皆様に愛され育ててもらっている。
戦後の1946年(昭和21年)、金武町伊芸に官営泡盛製造所が開設されたのをきっかけに二代目起松が召集され、伊芸酒造廠の泡盛つくりの命を受け、泡盛工場長に就任した。
戦後の物資不足時代、工場の建物は、米軍の払い下げを利用したカマボコ型コンセットを利用したものだった。杜氏(コウジサー)は、首里より玉那覇カミさんを呼び寄せ、他の職人も5、6名呼び寄せた。1952年(昭和27年)には、石川5区の住宅に崎山商店を開店し、泡盛の販売と同時に雑貨店を始めた。これは松藤の普及へ本格的取り組んでいこうとする藤子の企画であったと同時に、戦後石川の復興の流れでもあった。
小那覇舞天との親交
戦後沖縄の大衆芸能の復興やに尽力した小那覇舞天(オナハブーテン)と二代目起松との間には、深いつながりがあった。舞天は、沖縄のチャップリンと呼ばれるほど、戦争に傷ついた沖縄の人々の心を癒やす「笑い」を提供した人物である。二代目起松は、戦後すぐにスポンサーとして演劇活動を起こしていた舞天劇団の支援も買って出ていた。当時、崎山家の週末は、ステージを終えた劇団やPTAが泡盛や食事を目的に大勢詰めかけ(起松が招待していた)、従業員と家族を合わせると、まるでお祝いのようだったと当時を知る新城紀秀氏は語られた。焦土と化した沖縄を巡演する芸能団の送り迎えや食事の世話まで、起松は惜しみなく支援していたのである。
1949年(昭和24年1月1日)に官営は解かれ、やっと起松は家族とともに石川に移り住むことができ、ほっとしたことだろう。崎山酒造廠としては新たな出発をしたばかりで、戦後、米が高級品時代にあって、泡盛の原料となったのは、乾燥リンゴ、チョコレート、台湾ザラメなどであった。今でも、伊芸の古老たちは、当時、チョコレートが山積になっていた工場からチョコレートを取って食べたと懐かしむ。
1953年(昭和28年)、この頃よりタイ米を使用した。