コウジサーの活躍
3代目操は、多忙な父、起松に代わって1950年代頃より工場を切り盛りしていた。特に、父起松が昭和28年から石川市長として、政界への進出、昭和33年琉球酒造組合連合会会長、琉球泡盛産業株式会社社長などを歴任し、対外的に忙しい中で、崎山酒造廠を妻光子と共に酒造の仕事を切り盛りしていた。
玉那覇カミさんは、現代表者の和章が小学校3年生頃まで、コウジサーとして住み込み、戦後20年余を崎山酒造廠とともに過ごし、家族同然だったと語る。特に三男の勝也を本当の孫のように溺愛していたらしい。後に、大学卒業後の勝也が、崎山酒造廠で、事務、壜詰や配達など始めるが、後のコウジサーである喜納さんの急病で、コウジサーとして、右も左もわからない中で、酒造りが本務となってくる。3代目の妻、光子はコウジサーとして、自身も働きながらも、主のコウジサーを急遽失った酒屋のドタバタ振りを、当時の従業員はもちろん、息子達と共に昼夜無く働き通しだったと話している。現在、崎山酒造廠を支える勝也に、玉那覇カミさんも草葉の陰から誇らしげに声援をおくっている事だろう。
昭和40年、玉那覇カミさんの後継者として、喜納兼吉さんがコウジサーとなる。
喜納さんは戦前、首里の幸地酒造所でコウジサーとして酒造りをしていた人で、戦時下でも、陸軍省の要請でビルマへ泡盛造りに出かけたメンバーの1人であった。終戦後は同地にあった、伊芸の試験場でコウジサーとして働いていたこともあった。喜納さんは82歳という高齢となるまで、約30年近くを崎山酒造廠の蔵人であった恩人でもある。
1954年(昭和29年)には瑞兆を販売するが、泡盛と甲類アルコールとの合成酒であったため、酒の性質上すぐに終売となる。
前後するが、1955年3代目崎山操と光子が結婚。翌年1956年には4代目となる和章が誕生している。
1977年(昭和32年)9月26日台風フェイの強風によってコンセットは倒壊し工場を建て替えたが、床の石セメントは当時の軍が整備したまま残っている。妻光子は、コウジサーの喜納さん、又は姑の藤子から、何年も教えを受け、酒造りを覚えながら働き、職人の朝夕の食事を造り、3人の子を育て上げている。
光子はいわゆる床麹と言われたニクブクの時代から箱麹の時代、機械化となったドラムから三角棚と麹造りの変遷を見聞きしてきた。実際にコウジサーとして長年培ってきた経験と感は今もなお、若いコウジサーの師となり、教え継ぎ手となっている。