松藤の名前の一文字にもある
二代目 藤子おばあちゃんの妹 信子は戦前に台湾へ嫁いでいます。
今では、孫の代になりましたが、少しずつ交流は続いています。
義父の操は毎年の年末を台湾で過ごすのを楽しみに、出かけていたようです。
叔母である、台湾の信子も又、甥の操(3代目)の訪問を
首を長くして、楽しみに待っていたようです。
その二人も、義父、操が1997年に61歳で
台湾のおばあちゃん、信子も2000年に83歳でそれぞれ亡くなっております。
その孫の 謝 宗勲(左から2番目) 母親の王さん(右から2番目)が会いに来てくれました。
たった2日だけの滞在期間でしたが、古い写真を見ながらの
おばあちゃんや義父の思い出話に尽きることはなく、
遠い台湾からの親せきの来客に、喜び、心あったかい交流に、
あらためて血のつながりを感じずにはいられませんでした。
80歳の義母と台湾へ行ってきました。
義母は鉄道技術者の父と母のもと、
二人の兄、二人の妹、弟と6人の兄弟の長女として台湾で生まれました。
18歳の夏、太平洋戦争が激しさを増す中、戦後を迎え、沖縄へ戻って来たそうです。
一昨年には、いつも義母から聞く台湾の暮らしぶりや、思い出に共感し
「生まれた場所や学校があった場所を見てみましょうか?」
と話すと、義母はひとつ返事で
「あなたが一緒に行ってくれたら、是非行きたい」
彰化市で生まれた義母は
その後二水に移り、そこで小学校6年生まで育ち
二水国民小学校
彰化高女
嘉義女学校に通っていたようです。
台湾を離れて60年を経て、思い出も記憶の中で薄らぐ中、
生まれた家
通っていた学校などをめぐり街並みの変貌に驚きながらも
昔懐かしい、景色の中で嬉しさを隠せないようでした。
元気なうちにきてよかったなぁと思いました。
あれから2年
高雄国際マラソンへ参加するツアーにお誘いがあり、
走らなくていいというので
義母へ聞いてみると
またまた、義母は「高雄御は行ったことがないから行きたい」とひとつ返事。
やっぱり親孝行は元気なうちにと思い、すぐに申込みました。
第二のふる里への旅は、今回は団体旅行で若い人たちに囲まれて、
義母も楽しく過ごせました。
ツアーの皆さん本当にお世話になりました。
皆さんの励ましのお陰で義母はますます
若返りました。
感謝。
崎山酒造廠(しゅぞうしょう)の創業者は女性で明治12年生まれの比嘉オトである。
オトは23歳で崎山家へ嫁ぎ、3人の子をもうけ、病弱であった夫を助けながら、
実家の家業であった、造り酒屋を始めたのである。
(実家は現在の㈱比嘉酒造まさひろである)
オトは、当時としては珍しい自立した考え方と明るさを兼ね備えた、
面倒見の良いしっかり者であったという。
オトは56歳でこの世を去るまで、蔵で麹に触れていたという、逸話が残されている。
オトの泡盛に対する深い情熱と伝統の造りは今も脈々と受け継がれている。
2代目起松は母の後を継ぎ、藤子と結婚した。
起松は明治の男にありがちな、頑固一徹な男であったが、
夫婦二人の思いを込めて二人の名を冠した「松藤(まつふじ)」という商標を残している。
女性の地位の低かった昭和初期に夫婦の名前を一文字ずつ入れて
商標名にしたのは珍しく、誇らしい。
「松藤」を大切に守り、育てていきたいと思っている。
私は47歳で公務員をやめて泡盛のことも、
会社の経営のこともわからない一からの出発でした。
当時は社員にも随分迷惑をかけたと思う。
ただ義母光子はおおらかな女性で、その支えと教えがあったからこそ、今に至っている。
那覇市首里、金武町伊芸と場所を超えて、時を超えて造られ続けた「泡盛、松藤」。
明治38年、創業者崎山オトによって、誕生した崎山酒造廠は、今年105年目を迎える。
激動の20世紀を乗り切り、陰となり日向になり、
支え続けた女性たちの粒粒辛苦の結晶でもある。
飲んで頂いているお客様への感謝を忘れず、オトが生涯をかけて造り続けた泡盛への思いと
苦労を忘れることなく、しっかり受け継いでいきたいと思っている。