9月に入りましたが、毎日暑い日が続いていますね。
この時期になりますと
沖縄では ハーリー祭り
海洋博公園 花火祭り
オリオンビアフェスタ・・・・など
どこかしらで
楽しいまつりが。あるんです。
全国各地でも夏祭りが開催されていますが
皆さまはどこか地元の祭りにお出かけになりましたか?
前回紹介しました さんさ祭り 本当楽しかったです。
その時の紹介しました うるまのエイサー祭りが
今週開催されています。
9月3日(土) 4日(日)
うるま市与那城の運動公園にて
うるま市がエイサーの発祥の地であると聞いていますが、
まぼろし比嘉エイサー、石川エイサー、
勝連、与那城、各地の珍しいエイサーがご覧になれます。
本来は旧盆のウークイの日に踊られる伝統芸能ですが、
沖縄市が全島エイサー祭りなどを開催するようになってから
各地の祭りで賑やかに踊られるようになって来ました。
8月1日~3日 岩手県盛岡市を訪れました。
NHK朝の連続ドラマ「どんとはれ」の主演を演じた比嘉愛美さんが
うるま市の出身だったことから始まった交流事業で生まれた「夏美の夢」は盛岡の米で泡盛を造らせて頂いています。
「薬膳味噌」は全国から選りすぐった、玄米、はと麦、黒胡麻、黒千石大豆、黄大豆、
沖縄の自然海塩でできているこだわった味噌ですが、これにも岩手の玄米とはと麦を使わせてもらっています。
先の東日本大震災から5カ月に入ろうとする8月の初め、お見舞いをかねまして「さんさまつり」に参加をしてきました。
東北の伝統行事である祭りの数々は、東北の人々にとって、情熱を発散しつつ、
新たなエネルギーをため込む祈りであり、希望であると思います。
さんさは伝統の踊りは特にすばらしいのですが、何より30年前にみんなで踊れる簡易型を造り、
パレードとして全体の祭りに持ってこられたという
盛岡市の皆様のご努力がすばらしいと思います。祭として、短い夏の間に多くの観光客に来て頂きたい想いが詰まっています。
3日間続くさんさのパレードは圧巻です。
各団体の踊りと華やかなお揃いの浴衣は、次々と参加される団体の個性になり、
長い冬を越してきた、夏の象徴でもあり、観客の目を楽しませてくれる風物詩です。
城下町の風情あふれる街で、たくさんの女性たちが元気よく、奥ゆかしく、品の良い踊り「さんさ」
村々の青年たちが、大きな太鼓を使い、たくましく勇壮に踊る「沖縄のエイサー」。
どちらも祭りの踊りは、見る者にも沢山のエネルギーをもらえ、元気にしてくれます。
うるま市安慶名にある
寿司 やましろに行ってきました。
098-973-1988
うるま市みどり町4-6-3番地
店主の山城さんは年に一度だけ、
江戸前の鰻をお客さんに食べてもらいたくて、
寿司をお休みして、鰻デーを3日間だけ行っています。
山城さんは、銀座の有名な某寿司屋で修業を重ねてこられた
根っからのこだわりやさんです。仕事を深く愛していて、料理人として
本当に誇りをもって寿司を握っているのです。本当に美味しい。
「鰻、今年もやりますよ」の声掛けに
待ちかねていた私達です。
ふっくらとした江戸前の鰻は、箸でスーとちぎれるほど軟らかく、
繊細な味わいの優しいタレと合わさって、
本当に美味しかったです。
江戸前のうなぎと関西の鰻では焼き方がちがいます。
関東では、江戸に武士が多くいたせいもあって、腹裂きは「切腹」に通じると言って、縁起を担ぐ昔の人は嫌っていました。
それで、関東では背を割く割き方が広まったそうです。
それに、関東では、鰻を一旦、ふっくらと蒸してから本焼きします。
その時、鰻は軟らかいので、身の崩れるのを防ぐため、竹串を5本差します。
関西では、割いた生の鰻に2本の串でも簡単にひっくり返せるので2本で済みます。
又何度も焼くので、身が引き締まって味わいがしっかりしています。
どちらの食文化も素晴らしく、鰻には、ステーキにはない凛としたご馳走を感じます。
古い友人との再会が、ぎこちなさで始まり、
懐かしさでいっぱいなりながらも
そのくせ、昔の時をすぐに取り戻せるように・・・
古い松藤との再会は
泡盛を造っている製造者としては
自分のものではないけれど、
崎山酒造廠の名前は消えることがなく
製造者冥利に尽きると思います。
こんな味に熟成してきたんだ。
もう少し成長してほしかった。
こんなに大切に持っていて下さった。
その時その時の感動と想いは
飲んでくださっている人への感謝と
造り続けるための、努力を思い起こさせてくれます。
今日は慰霊の日
沖縄戦から66年がたちました。
一般住民を含めた24万人が亡くなった戦争への慰霊を込めて
戦争を忘れずに、子供たちへ語り継ぎ、
平和を願う心を世界へ発信する日です。
私の祖父、亀一郎も40歳の時、
一般住民として、さいごの勤皇隊として召集されて 亡くなりました。
その時18歳だった母は、大黒柱を失った家族を養いながら
苦労を重ねて生きてきたのです。
それは、母に限らず、多くの沖縄県民が戦争体験者が
悲しみを心に秘めながら、強く生きて来たと思うのです。
母が強く生きてきたから、私が生まれて
こうして生きています。
今の平和な沖縄も
24万人の犠牲に成り立っています。
この平和は当たり前ではない。
私が生きている事も当たり前ではない。
平和を願う気持ち、
生きていることに感謝する気持ちを忘れないようにしなければ。
慰霊の日の新たな想い。