松藤の名前の一文字にもある
二代目 藤子おばあちゃんの妹 信子は戦前に台湾へ嫁いでいます。
今では、孫の代になりましたが、少しずつ交流は続いています。
義父の操は毎年の年末を台湾で過ごすのを楽しみに、出かけていたようです。
叔母である、台湾の信子も又、甥の操(3代目)の訪問を
首を長くして、楽しみに待っていたようです。
その二人も、義父、操が1997年に61歳で
台湾のおばあちゃん、信子も2000年に83歳でそれぞれ亡くなっております。
その孫の 謝 宗勲(左から2番目) 母親の王さん(右から2番目)が会いに来てくれました。
たった2日だけの滞在期間でしたが、古い写真を見ながらの
おばあちゃんや義父の思い出話に尽きることはなく、
遠い台湾からの親せきの来客に、喜び、心あったかい交流に、
あらためて血のつながりを感じずにはいられませんでした。
高速道路の南インターから右へ曲がって
2kmほど走り、
北谷二ライセンターの通りにある 寿司「よし八」
オーナーの前川さんがロスアンジェルスの寿司屋で働いていた関係で
アメリカ人のお客さんで人気の居酒屋さんです。
10年来の友人で、いつも温かく迎えてくれて、
賑やかなパフォーマンスでおもてなしをしてくれる気さくなオーナーでもあります。
その夜も、お連れした友人へのサービスに、松藤を持って、いつもの決めポーズ。
彼の考案した寿司レインボー
中の具材もたっぷりカニなど入っていて
食べ応え充分です。
私のお勧めは、寿司屋だけれど、
ウンチェー炒めと
近海魚のまーす煮です。
泡盛の特性は何と言っても熟成にあります。
泡盛の古酒文化を自然な形で造り上げてきた方が
謝花良政さん。
謝花さんは昭和4年本部町生まれの現在82歳。
整備工としての長年の技術を活かして本部自動車修理工場として独立をされたのが
1956年6月でした。
創業の記念に、何か記念になるものをと思い立って始められたのが
以前からの趣味で集めていたシャム南蛮甕への泡盛の詰めでした。
それが50年を超える古酒づくりへの趣味へと繋がっていく事は
謝花さんも意識されてなかったようです。
整備工場の経営で多忙の中、いつの間にか泡盛を詰めておいたのも忘れかけていた頃、
ふと甕に詰めた泡盛を思い出し、開けて飲んでみると
琥珀色に輝いた泡盛は、華やかな香りと上品な甘さを持ったなめらかな古酒へと変化を遂げていたのです。
今でもその時の感動と、泡盛の古酒の旨さが忘れられないといいます。
元来の凝り性の謝花さんの趣味のひとつに「古酒づくり」が加わった瞬間でした。
私達は数年前から、古酒づくりの学びで、年に数回、謝花さんの元を訪れます。
成功談議も勉強になり、良いけれど、失敗談義はとにかく面白くて、
何よりも、謝花さんの人生談義は奥深くて面白いのです。
何とも奇遇ですが、私は1956年5月生まれです。
謝花家の1956年の泡盛が今も50年の時を経て、旨さを増し、熟成を重ねていることを思いますと
私も泡盛の熟成に負けずに、人間熟成を重ねていかねばと思うのです。
沖縄の6月、目に青葉の頃
清々しい緑に夏の始まりを感じる季節です。
ところが、
猛烈な雨風を伴いながら、台風2号は
沖縄東海岸をなめるように通り過ぎました。
沖縄の山々や海沿いを走ると、目に飛び込んでくる木々の緑も
塩害で茶色に濁り、まるでちょっとした火事の後です。
最近では珍しくなった、停電も各地で頻発したようです。
夜の丁度台風の最中、実家の母に電話をすると
暗い中で、ロウソクをともしながら、父とふたりでご飯を食べているという。
「大丈夫?」と聞くと
「だいじょうぶさぁ~」
「東北の大震災を思えば、これくらいはなんでもないさぁ~」
家がちゃんとあって
家族で食事が出来る。
こんな幸せなことはないと言葉が続いた。
いつ起こるとも知れぬ大地震に比べたら、
台風の進路は、ある程度の想定が可能である。
美しい自然に癒されながらも、沖縄では常に台風の
自然災害の脅威に、対処するかのように、
コンクリートの住宅に変化してきた歴史があります。
5月30日 ザ ナハテラスで恒例の
沖縄県酒造共同組合総会後の懇親会パーティーがありました。
泡盛に関わる方々に会える日でもあります。
47酒造所の組合員はもちろんですが、
醸界飲料新聞の仲村征幸さん。
琉球居酒屋うりずんの土屋實幸さん。
泡盛の研究第一人者の照屋比呂子さん。
首里物産の宇根底講順さん
そうそうたる面々です。
泡盛が見向きもされなかった頃から
泡盛の知名度の向上。
泡盛ファンの拡大。
泡盛の研究。
その他多くの泡盛の牽引者たち。
琉球泡盛の普及拡大と業界の発展は
多くの皆さんの泡盛への深い愛情とご苦労の上で成り立っております。
そして新たに牽引していく製造者
研究者の皆さん
販売をして下さる皆さん
今後ともよろしくお願い致します。